山口会頭 |
どういう形の方法で、やるかという事が、具体的に決まらなくてはね。 |
鈴木会長 |
日本が戦争に負けて、先輩方が戦後何もないところから、凄いエネルギーで頑張っていただいて、今、我々平和と豊かさの中で暮らしているんですが、ただ、これからの時代、単に目先のことで、自分だけ良ければということでは、立ちゆかなくなっている様な気がします。 |
山口会頭 |
明治維新の時も第2次大戦後もね、若い世代が日本を立ち上げたんです。 |
鈴木会長 |
私事で大変申し訳ないのですが、私、中学1年と高校1年の子供がおりまして、この間、たまたま鹿児島で会議がありました折に、翌日に、子供を呼びまして、知覧の特攻隊の記念館と、鹿児島の維新の色々な施設を、親子で回って来ました。今の日本、自分も含めて忘れている事が一杯あるんだなあと改めて思いました。その時に、子供達と喋っていて、三つ言葉が浮かびました。
1つは「使命感」という言葉。もう1つは「責任感」という言葉。3つ目は「潔さ」という言葉。今の日本では、死語みたいになってしまったなぁと思いました。 |
山口会頭 |
比較的少なくなりましたね。 |
鈴木会長 |
企業経営も結局、同じだと思います。 |
山口会頭 |
少なくとも経営者は、そういう言葉を持たないといけませんね。 |
鈴木会長 |
日本人というのは、素晴らしい心根を持っているはずなので、それをもう1度、見直して、磨きなおしていかなければいけないし、そういうのがなければ、世界に出た時に評価されない。ただ英語が出来るだけではしょうがないんじゃないかなと思っております。そんな事も今、全国に色々お話しさせていただいているんですが、しかし、こう言いながらも、私達、生きるか死ぬかという場面を、本当の厳しさというのを体験していないわけですから、ちょっと後ろめたいとは言いませんが、どこか少し心の弱さもあります。そのためにも、やはり山口会頭を含めてそういう年代の方々と、もっともっとお話をさせていただきたいと思います。
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山口会頭 |
私は、最後の陸軍少尉だったんですよ。終戦が昭和20年8月15日でしょう。その年の8月1日に、陸軍少尉になった最後の職業軍人だった。平壌にいたものですから、ソ連に抑留されて3年経って帰ってきました。学校やりなおして、会社はいって・・・大変でした。私の3人の娘達に軍隊の頃の話をしますと「親父、古いそういう話を会社ですると、若い人たちに嫌われるよ」なんて、3人とも言ってましたよ。
私は戦争へ行く前、休暇が1週間あり、田舎で両親や親戚と過ごして、最後の3日間はこれが最後の日本だと思い、両親と温泉を周り一緒に過ごしました。山陰の温泉をね、鳥取の皆生温泉でしたか、それから、山口県の下関の漁港から戦地に渡ったわけですが、その時に思いましたね「なぜ、自分は2度と帰れないかもしれないのに行くんだろうか」と。結局、故郷を守り、両親を守り、自分が行くことによって、年老いた祖父母も守って、その為に行くんだと思って納得しました。今から15年か20年前、司馬遼太郎の日露戦争をテーマにした“坂の上の雲”が映画化されて、娘達3人と観に行きましたが、娘達はどういう反応を示すかなと思いましたが、やっぱり解るんですよね。昔の戦争の映画を見て、そして、さだまさしの歌を聞いて、親父はこのために行って、捕虜になって、そして3年棒に振ったかと思ったんでしょう。しかし、3人の娘達は、その時死んでいった人たちの気持ちが解ったと。
そんな事は、もう2度と、あってはいけない事ですが・・・。人生というのは、そういう極限状態を経験することがありますよ。これから子供達が、幸せな日本で幸せに暮らして欲しいけど、しかし、頑張らないと日本も経済的には駄目になりますからね。命を落とすことはないけど、しかし頑張っていかなければ、日本は良くならない。 |
鈴木会長 |
私達は本当に零細企業ばかりで、いわゆる自己責任の世界で、会社が駄目になれば、家から何もかも全部取られ、銀行からお金を借りると、全部個人保証をし、という商売をしています。だから、最終的には、自分が頑張るしかないし、自分が責任を取るしかない。ただ、今までは、右肩上がりの時は、自分が努力をして、自分の会社の事だけを、一生懸命考えていれば良かったかもしれませんが、それだけだと、今、行き詰まってしまうような気がとてもするんです。もっと、お互いに知恵を出し合ったり、力を合わせたり、お互いを活かしていく、そういう事をしていかないと、今の日本の状況と同じになってしまうような気がします。そういうところでも、青年部の組織を上手く使っていかなければならないと思います。
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山口会頭 |
今、製造業は中国へ移行しつつありますけど、日本の経済は、日本で作り、日本で消費して貰って成り立っているわけですから、どうしても日本に残って頑張るという事が、大事なんですね。そして、その道を開いていかないといけない。
ここまで随分苦労して、このデフレに耐えて頑張ってこられて、これからも多少、構造変化の中で苦労する場面はあるかもしれませんが、しかし今残っているところは、なんとしても生き抜いて欲しいですね。
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